2007年02月09日

不思議の体験 I

 文明の発達により、人はいろんな体験ができるようになった。
 飛行機のおかげで地球には裏も表もなくなった。
 人類の夢だった月世界旅行も現実のものとなりつつある。
 また、CGやオーディオ機器を駆使したバーチャルリアリティの手法によれば、居ながらにして、海底の楽園を散策できたり、恐竜の闊歩する太古のジャングルに踏み入ったりもできる。
 それと、遺伝子の研究も進んできている。
 近い将来、DNAの解析によって先祖の記憶のすべてが明らかになるかもしれない。
 しかし、いかに科学技術が進歩しても永遠に不可知だろうと思われる領域もある。
 それが死後の世界だといわれている。

 世の中には霊魂不滅がイメージとしてはまだ残されており、臨死体験や幽体離脱など、興味をそそる話も種々取り沙汰されているが、ある時までの私には、それらのいずれもが睡眠中の夢の範囲を出ないもののようにしか思えないでいた。
 ところが、そのある時に始まった私の体験は、死後の世界と霊魂の存在を明確に示し、自己のライフスタイルまでをも決定づけることになったのだ。
 この、まさしく人生のターニングポイントとなった体験の余韻は、爾来、今にいたっても消えることなく、日々実感として継続している。
 その実感とは生きる歓びであり、人としての活力源そのものになっている。
 しかし、当今では死後の世界とか霊魂とか言うと、前近代の愚劣なコンセプトでの用語とするのが大方の風潮だろう。
 したがって、如何に随想とはいえ、これらの語句をもって大上段で書き散らかすほど世間知らずではないつもりだ。
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※この日記は流れを自然化するため、日付が降順になっています。


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2007年02月08日

 II

  暑い日だった。
  梅雨が明け、すっかり夏型の気圧配置となった東京は、午前十一時で既に三十度を超え、つぎつぎと走り過ぎてゆく車がプラタナスの木陰を熱風の渦であおりたてていた。
  昭和五十九年七月十二日。この四十五歳の夏の日のことを私は一生忘れることができない。
  その日、社に向けて家を出たのだがタクシーが来ず、すこし歩きはじめたときだ。急に胸に激痛がおこり、それはみるまに腹部から左大腿へと走り、同時に暑さとは無縁の冷たい汗が噴き出てくるのがわかった。
  口を開けても息が吸えない。立ち止まったまま動けないでいる私の尋常ならざる様子を察したのか、すぐ前の商店から人が出てきて、顔をのぞきこみながら声をかけてくれているのだが、私の声は声にならない。
  救急車で運びこまれた榊原記念病院のCCUで翌朝私は目を覚ましたのだ。
『わたしの先輩で、優秀な外科医だったんですが、あなたと同じ状態になりましてね。いまでは週に三回、一回二時間ほどですがカウンセリングの仕事をなさってます。外科医は重労働ですからね…』
  この担当医から家内が聞かされた私の病名は、《陳旧性心筋梗塞・閉塞性動脈硬化症》というものだった。
  ―― なんということだ。このオレが心臓病だなんて。もう仕事らしい仕事はできない だと?オレはまだ四十五だぞ。 ――

  ところで、私は昭和十四年新潟の生まれだ。他人様に言うことではないかもしれないが、生家は越後でも有数の豪農だった。戦中戦後の苦労さえ知らず、その後の人生も順調そのものだった。二人の男児も頼もしく成長し、私の社業も、それなりの精進に見合って堅実に伸びてきたのだ。
  だから、だから、好事を襲う魔が集積されていたというのだろうか。
  しかし、私としては退院後の事などに思いを馳せると、それは到底受け入れがたい現実だった。
  ところが、あとで知ったことだが、CCUのベッドの私に話しかけた担当医の言葉は私を最大限励ましたものであって、そのときの私の容態というのは退院だの仕事だのを云々するどころではなく、まず助からないだろうというのが本当の情況だったのだそうだ。
  結局、救急車での入院から約一ヵ月後、慶応病院での大手術ということになったのだった。
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2007年02月07日

 III

  入院から手術までの間、一度は一般病室に移ったが発作がひどく、またCCUに戻され、私には、もう日にちの経過や昼夜の区別がつかなくなっていた。
  ただ、そんな中、私は病苦とは繋がらない奇妙な夢をよく見た。それは、意識が薄れかけるたびに始まり、その都度鮮明さが増してきていたから、夢というより判然とした幻覚だったかもしれない。
  《奇妙》というのは、苦悶のさなかにあるにもかかわらず、その夢が悪夢とは程遠い、懐かしさで胸が一杯になるような、恰も真綿の繭のなかに心地よく安らいでいるかのようなそれだったからだが。 

  手術のとき、この夢うつつのなかの一連の感覚は、麻酔で始まり、醒めるまで途切れず続いた。
  ちなみに、この感覚はその後のどんな眠りの中でも二度とおきることはなかったし、無論、それ以前には全く経験の無いものだった。

  このことについて詳しく述べる。
  入院から幾日目のことかは分からないが、初めてのこの感覚のとき、私は、(死にかけてるんだなァ)と、弱く直感した。(死ぬってこういうことか)という傍観者のような意識もあった。體からベッドの感触が消え、でも宙に浮いているというのではなく、何か柔らかなものに優しく包まれているような、とても安堵できる状態なのだ。
  臨死体験の情景というのは、私の聞いたかぎりでは、そこは花園だったり、緩やかな起伏のゴルフ場のようだったり、兎に角美しく穏やかな想像上の天国・極楽に似た場所が多いように思う。
  そうだとすれば私の場合は違っていたから、一旦黄泉の国に入り、その後現世に戻ってくるという、いわゆる臨死体験というものではなかったのだろう。
  心地よく安らいでいるような奇妙な感覚に、はじめは視覚らしきものは含まれていず、ミルクのような白っぽい明るさがあるだけだった。それが、幾度目かの朦朧状態のときからは情景が現れるようになり、その中へ私は歩き出そうとするようになったのだ。
  しかし、歩きはじめると毎回そこで目が覚め、ベッドに横たわったままの、體じゅう電極やチューブだらけの自分に戻ってしまうのだった。
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2007年02月06日

 IV

  私が歩き出そうとすると消えてしまう奇妙な感覚の中のその情景は毎回同じで、我に返ってもすぐには忘れられない。だから、その記憶も次第にはっきりとしたものになってゆく。
  しかし、これはあくまでも病魔による幻覚にすぎず、断じて臨死体験などではないと信じた。
  幻覚の情景が、話に聞いた美しさや穏やかさとは無縁なことも、そう信じるよすがだったかも知れない。
  そこは、花も樹も一切無く、都会の解け残った雪のように薄汚れた白と灰色、そして黒。そんな三色だけを使った細密な切り紙細工を思わせる異様な山道だった。
  間近に降りてきているのは濃い霧、あるいは雲だろうか。
  私は、その白いペールの中に溶け入って先の見えない荒涼とした山道を登りはじめようとするのだが、幻覚はいつもそこで途絶えたのだ。

  幻覚が途絶えずに続いたのは手術のときだった。
  その手術のため榊原から慶応へ搬送される救急車のなかで、私の意識はすでに朦朧としていたと思う。
  しかし、麻酔をかけられてからも執刀医がスタッフに向けて発したと思われる「はじめます」という冷静な声だけははっきりと聞こえた。
  そしてその瞬間、長い幻覚は始まったのだ。
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2007年02月05日

 V

  私はいつもの荒れ果てて寒々とした山道を登りはじめてみた。
  ところがどうだろう、幻覚はいつもと違って途絶えないばかりか、私のハダシの足の裏に幻影であるはずの山道の、その地面の尖った石粒がくい込んでくるではないか。
  道はすぐ雲の中にはいり視界が利かなくなった。その途端、強烈な悪臭が鼻孔に刺さってきたのだ。私はたまらず鼻と口をハンカチでおおったが、鶏卵が腐ったようなその異臭はまったく防げない。それでも私は恐る恐る歩を進めるしかなかった。
  悪臭から逃れるには戻ればいい。しかし、(戻れば死ぬ)。そのときの私は咄嗟に何故かそう思ってしまったのだ。
  何十歩か何百歩か、視界ゼロの坂道を必死で登った。すると雲海を出たのか視界がよくなり、悪臭も薄らいで、山の頂上付近が見えてきたのだ。
  気配だが、頂上には人もいるようだ。
  なんとはなくホットして、また登りはじめようとした矢先、ドドッ、ドドッという地鳴りが起きた。前方を見透かすと、なんとドラム缶ほどもある大きな岩が二つ三つと私に向かって転がり落ちてくるではないか。
  沢になっている狭い道だから大岩はまちがいなく私を撥ね飛ばすか拉ぎ殺すにちがいなかった。
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2007年02月04日

 VI

  そのときだ。頂上から私に怒鳴りつけるような声。
  見上げて眼をこらしてみると、それは思いもよらぬ私の兄ではないか。亡くなって既に十年は経つ二番目の兄なのだ。その次兄が大岩から私を逃がそうとして怒鳴っているのだ。
  沢道の両側は瓦礫のような山肌だから逃れるべく取りつく木も草も無い。
  危機は、私から兄に呼びかけるまもない近さに迫っている。
  恐怖で竦みあがっている私に、「右によけろ!」「つぎのは左!」と、兄の声が飛んでくる。その兄の命令どおりに避けると、唸りをあげた大岩は次々と私をかすめて転がり落ちてゆき、最後の一つも転がり去って私は難を逃れることができた。

  仰ぎ見ると、私の無事を見とどけている兄のかたわらに父が立っている。その隣に写真でしか知らない母がいる。私が妻を娶った年の大晦日に亡くなった父と、二歳のときに死に別れた母だった。
 懐かしさで胸が一杯になった私はしばし呆然としていた。
  すると、最初に兄が踵を返し、それに合わせるように父も母も背中を向け、私の位置からは誰も見えなくなってしまった。
  私は置いてきぼりにされまいと、「兄さーん」「父さーん」と叫びながら残りの坂道を全力で駆けあがった。
  息せき切って頂上にたどり着くと、三人ともまだ十メートル足らずのところにいて、こちらを見ていた。だから私は有頂天になって駆け寄ろうとしたのだが、意外にも私を救ってくれた兄がまったくの無表情なのだ。父も母も笑みさえ浮かべない。
  そして、それ以上私が近づくことを、兄は手のひらを押し出すように向けて制したのだ。
  私が声を出そうとする瞬間、「今は来ないほうがいい」「山をおりて帰れ」と冷たい声で兄が言った。
  一番優しかった兄なのに、その声には、「どうして?」と訊きかえすことのできない怖さが籠められていた。
  三人はやおら向きをかえ、言葉を交わしあいながら、ゆっくりと遠ざかってゆく。一度も振りかえってはくれない。私は声をあげて泣いた。すると、それが聴こえたのだろうか、遠ざかりながら兄と父と母が、かわるがわる私の名を呼んでくれたのだ。しかし、どこか間延びした声だった。
  ところが、いよいよ遠ざかってしまってから、なぜか今度は間近な声が私を呼んだのだ。

  事のなりゆきを訝りはじめた私を、突如中天に現れた幾つもの太陽が射るように照らしている。
  気がつくと何人かのドクターがマスクをはずしているところだった。太陽と思ったのは灯ったままの無影灯だった。
  眼だけが辛うじて視えているだけの、全身鉛と化して身じろぎもできぬ状態にもかかわらず、私には、死線を越えたという実感が湧きはじめているのだった。
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2007年02月03日

 VII

  秋の早い年だった。
  九月の下旬には庭の金木犀が無数の蕾をつけていた。
  慶応での手術から四日目には榊原へ戻り、その八月の末には榊原からも退院できるという異例の快復ぶりには主治医も驚いていたが、なによりも家内の喜びようが格別だった。
  それはそうだと思う。家内は病院で、一旦は私との死別を覚悟させられていたのだった。その私が、生死の境目での六時間にもおよぶ手術中にむかえた二度の緊迫した事態も知っており、そのうえ予後も楽観が許されない旨を重々聞かされていたのだから。
  そんな私が幾分かは生気さえもおびて帰宅でき、庭を眺め、しかも、少量とはいえ好きな酒を口にしているなどという図を、家内は二度と無いものと思っていたそうだ。
  いそいそと上機嫌の家内の発案で、リハビリと傷の湯治、それに私としてはその家内へのねぎらいをも兼ねて、十和田・奥入瀬あたりで夫婦ともども少しのんびりしてみようかということになった。青森は家内の里でもある。

  十月の初め、私は十和田湖畔に立っていた。
  紅葉が全山でたけなわの十和田の自然は、まさに息をのむ美しさだ。
  救急車のお世話になった瀕死の状態から今日までのおよそ三ヵ月。私にとっては何もかもが生まれて初めてのことばかりだった。痛いとか痒いとかと違い、生死の境界線を歩くなどということは、そうそうあることではないはずだ。
  はじめてではない十和田の美しさがひとしおだったのは、そんな経験のあとだったからではないだろうか。
  宿で絵葉書を書いた。病院まだ来てくださった方。手紙をいただいた方。郷里新潟の同期会からは千羽鶴をもらった。ぶきっちょな男の指で一つ一つ折ってくれたものだった。
  つぎつぎと宛名を書いているときだった。
「お父さん、辰雄がねェ、願を掛けていたそうですよ」
と、家内が言う。
  辰雄というのは、陸奥の大湊で家内の実家を継いでいる義弟のことだ。
  大湊は、昔は、地元では弁財船と呼んだ北前舟の入る港として活況を呈し、家内の先祖も船問屋としてずいぶんと隆盛をきわめたようだ。
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2007年02月02日

 VIII

  その義弟が私の重態を知って病院に駆けつけたあと、その日のうちに引き返し、本州最北端下北の地から願掛けをして病本復を祈ってくれていたというのだ。
  つぎの奥入瀬のあとは馬門温泉の予定だったから、野辺地に出れば小一時間で大湊だ。
「そう。今回は是非お礼にうかがおう」
  床に入り目を閉じると、久々の家内の実家が浮かんでくるのだった。

  早朝から天然の湯につかる。
  そこには、水がその輪廻の過程で劫初の地底から運びあげてきた天恵の成分が存分に含まれているのだろう。
  食事には、宿に頼んで、新鮮な野生の野菜を毎回一品は欠かさない。
  そんな、しかし、わずか幾日かの生活で、私の體には生まれかわったような生気が満ちてきていた。
  それと、手術の前と後とでは、私自身の感受性にもかなりの変化がおきていた。
  風の音、せせらぎの音、小鳥のさえずり、朝霧と見紛う湯煙の色、食べ物の味、土地の人の話し声、数えあげれば切りがないが、宿のテレビに映る世知辛い東京の景色までも、術前までの過去には何ということもなかった諸々のすべてに、親しみをおぼえ、嬉しみを感じてしまうのだ。
  また、気持だけではなく体力の回復も自覚できた。脚力が戻り、家内が追いつけないほどスタスタ歩ける。だから旅の後半は一切タクシーを使わないことに決めた。
  十和田近辺から青森をはさんだ津軽や下北は、家内との縁がもとで過去何回も訪れている。
  しかし、その度に心に見えたものは、下北半島の格別の寂しさだった。
  私も冬の暗い越後の産なのに、下北の、訪れる都度の印象は、冬の旅が多かったせいもあるのだろうが、暗く、なにも無く、寒く、寂しいところというものだった。
  JRが国鉄だった時代、大湊線に沿って今のむつ市に向かう国道二七九号を車で走ってみたときの、地図や飛行機から見た地形の先入観は措いたとしても、現れては左右に流れ去る風物だけで地の果ての感がいやましていったことが思い出される。
  しかし、その地の果ての人情には魅力を感じた。
  とはいえ、当時のそんな気持は、南国からの旅で雪国の情景を愛でるのに似た、その程度のエキゾチシズムに近い情趣をよがっていたに過ぎないと思うのだ。
  つまり、俗にいう「擦れてない」の一言に集約して、それで理解できたつもりで通りすぎる旅行者の眼の、乱暴にも《人情》をそんな捉え方でしか評価していなかったという意味だ。
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2007年02月01日

 IX

  この湯治旅行で、過去の自分には何と薄っぺらな感性しかなかったのだろうという、内心汗ばむような回想に私は幾度か見舞われていた。
  ところで、死に直面したときの心情というのは、暗く、なにも無く、寒く、寂しいものだ。
  手術の前と後との間にあった生死の境界線で、私が体験したのはわななくほどの寂寥感だった。それを味わったことで、術後に心のありようの違いを自覚することになったと思うのだ。
  爾来、私は周囲のすべての事・物に親しみを覚え、嬉しみを感じる日々を送ることになった。

  さて、下北は、暗く、なにも無く、寒く、寂しい。
  しかし、はたして、下北の人々は、暗さや寂しさは慣れっこで意識にのぼるほどのことではないのだろうか。
  そうではないと思うのだ。
  都会では、私のように鈍感にも死にかけるまで知らずにいる絶対の寂寥が、下北では慣れるより仕方のない風土をおおう大気そのものだったから、人々はそれを吸って生きてきたのだと思う。
  だから、私が絶対の寂寥によってようやく持ち得た親しみや嬉しみの心も、下北にあってはとうに人々の天性と化していて、その天性となった心の豊かさが下北の人々の呼気に含まれているのでは。
  その無意識の呼気が、思いやりとなり情けとなって風土の過酷さを和らげ、そこに立つ旅人の心までを暖めてしまうのでは。
  とすると、ほんとうの人情は、寂しさが育むのではないだろうか。
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2007年01月31日

 X

  温泉三昧の二週間が過ぎ、夕刻大湊の駅に着いた。
  少し風が吹いていた。
  風というのは不思議なものだ。はじめて大湊に訪れた、やはり晩秋だったその日からは、およそ二十年が経っているのだが、冬の近さを知らせるその匂いと感触は変わらず、遠い日の記憶を瞬時に蘇らせてくれるのだ。
  その冷え冷えとした風の中に車で出迎えてくれた義弟が立っていた。
  駅前の広場で、義弟は私の両手を取るや、はらはらと涙を流して無事を喜んでくれたのだ。私も、手の温もりと溶けあって伝わってくる情愛に打たれ、声を詰まらせてしまった。

  久々の家内の実家に入った。
  そこには、やはり旅館では望むべくもない體の芯までを温めてくれる、人の暮らしの暖かさが満ちている。
「辰雄さん、願を、掛けてくださったんですってね」
  食事の後、私はあらためて義弟の厚情に心からの礼を述べた。
「ご存じでしたか。兄さんには聞こえんようにって…お恥ずかしい」
  義弟は病院で私の様子を見たあと、とんぼ返りで下北に戻り、私を助からせたい一心から地蔵尊にすがることを決めたということだった。
  ところで、地蔵尊といっても私などに思い浮かぶのは石のお地蔵様でしかない。
  しかし、下北地方でのそれは、半島全域に深くゆきわたっている信仰の、非常に霊験あらたかな絶大の対象なのだそうだ。
  たしかに、以前から下北の人々の信心深いことは聞きおよんでいたし、なんといっても地元の恐山は、高野山・比叡山とともに三大山岳霊場の一つとして全国的に有名ではある。その恐山に祀られているのが地蔵尊なのだそうだ。
  また、恐山とともに、マスコミの報道によって広く知られるようになったのが津軽や下北地方固有のイタコの存在だ。
  《イタコ》というのは、初潮前の少女期からの修行により霊媒(シャーマン)となった盲目の女性で、死者の言葉を《口寄せ》の秘法で現世の人に伝えることができるといわれている。
  いずれにしても、今まで私は恐山を知らないままでいた。それは、家内からも「一度はお参りしてみたら」と言われながら、下北へは冬のことがほとんどで、雪のために登山できなかったからだと思う。
  さて、義弟の願掛けの話にもどるが、私が救急車で入院した七月十二日の次の日、義弟は空路青森・東京間を見舞いのために往復し、翌十四日の早朝からは、もうそれを始めてくれていたのだ。
  だが、家内がその祈願を知ったのは、手術後私が快方に向かいはじめた後のことで、それも、電話の折に弟嫁から茶断ちの話をチラと聞いただけということだった。
  いかに地元とはいえ、雪のない夏場であっても、一日も欠かさず恐山に登拝するということがどれほど骨の折れることか。それに下北でも夏は暑いのだ。
  それだけではない。義弟は《茶断ち》までしてくれていたのだ。
  義弟は私より三つ年下だが大の茶好きで、たしかに普段のも佳いお茶だった。
  その好きなお茶を、地蔵尊への私の病本復祈願のしるしとして、私の退院の日まで一切口にせず白湯でとおしたというのだ。
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2007年01月30日

 XI

  珍客の来訪で、大家族の家人たちが遠慮気味に客間に集まった。その家人同士の控えめで素朴な小声の遣り取りによって、彼らの当主である義弟の《願掛け》の日々が細切れに明かされてゆく。
  義弟は、かしこまって照れ気味に恐山の御利益話などを聞かせてくれている。
  床の間を背にしてその訥弁の声を聞きながら、私は次第にうなだれ、涙が溢れてくるのだった。
  私が泣いたことで座持ちに窮したのか、義弟は五分ほど客間をはずしたが、再び戻ってきたときは小さなノートを持っていた。
「大祭のあとも、残っているイタコさんがおりまして、口寄せしてもらいました」
  義弟が言う大祭というのは毎年七月二十二日から三日間おこなわれる恐山の大祭のことで、それには三十人ほどのイタコが集まるのだそうだ。

  早朝の恐山への祈願登拝もまもなく三十日目に手がとどくというその日は、山上に登りついたのが午後の二時頃だったという。前日地蔵堂近くで出会ったイタコとの約束に合わせたからだそうだ。
  義弟は、待ち合わせた中年のイタコに、私の名前と病状、自分の名前と私との続き柄、そして、知る限りの私の物故した肉親の名前を告げた上で、早速口寄せを依頼したのだった。
  古くから東北地方では、死者の霊は恐山に集まっていると信じられており、したがって、イタコの手短な経文によって、すぐさま口寄せが始められるという寸法だ。
  義弟の小さなノートには、その口寄せの内容が口述筆記の形で丹念に書き取られていた。この手のものに初めて接する私は興味津々なのだが、如何せん本場の津軽弁で綴られているため殆ど理解できない。
  そこで義弟に、要点を翻訳しながら標準語に似せて読んでもらうことにした。
『…ジャラジャラ(義弟の註釈「数珠の音です」)やァー、ジャラジャラ…
 …弟。おい弟。兄様は、火の山の石から、いま助けるぞ。助ける。
  火の山の石に、当たるまいぞ。
  当たると、つぶれるぞ。つぶれて死ぬぞ。つぶれるぞ。
  ホラこっちじゃ。こっちによけよ。つぎの石、お前のこっちから行く。
  つぎもこっち。…』
  ここまで聞き進んだとき、私は全身が一挙に粟立つのを覚えた。
  義弟の声で聞いたそれは、あろうことか私が手術中の幻覚で聞いた亡兄の怒鳴り声と、『火の山』だけをはずせば、まったく同義のセリフではないか。
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2007年01月29日

 XII

  いったいこれはどう思えばいいのか。
 『…ついて来るではない。山を下りて帰ることぞ。…』
  いましがた披露された恐山の霊験やイタコの秘法を、その時点では、土地の名産の自慢話にオトナらしく相槌を打つたぐいの素直さで有難く聞いていた。
  しかし、メモどころか録音もできる現実の口寄せと、個人の脳内だけの現象である夢うつつの幻覚との、しかも数百キロを隔てての符号・一致という、突然の怖気立つような奇怪さに直面すると、オトナの落着きなどは微塵もなく失せて私はただ恐ろしく息を呑んだまま口もきけない。
  (もしかして、これは夢の続きでは。十和田も、この大湊も、とすると退院さえ
  もが、すべて幻覚の中なのでは…)       
「以上です。まあ、口寄せには象徴的な言葉も多いようでして…」
  ハッと我に返ったが、読み終えて相変わらず笑顔でいる義弟に対し、私の怪訝さを訴えるすべがたちまちは見つからないのだ。
  私は、絶体絶命の手術中に見た幻覚については家内にも誰にも話してはいないから、その幻覚の中で私が亡兄に大岩から救われたことなど義弟は知る由もないことなのだ。
  とすれば、唯一の可能性として、手術中の私のウワゴトを、術後、医師から家内が聞かされ、あるいはそれが義弟に伝わったやもと、咄嗟にそんなことまでが脳裏をかすめはしたが、手術中は麻酔の挿管で口がふさがれており、たとえウワゴトを言っても言葉にはならず、これもあり得ないことだった。
  また、よしんば義弟が私の幻覚を知っていたとして、それをイタコがらみのトリックに仕立てて何になるか。
  それと、私の生まれて初めての幻覚体験を家内に聞かせぬままにきたのには訳がある。死と直面した情況で見た夢や幻覚のなかには家内が一度も登場しなかった。このことの何とはない後ろめたさのような心情が私にはあったのだ。
  気をとりなおし、義弟のノートを今一度手にとって読ませてもらった。すると、三ページほどの走るような筆跡の末尾に8/9と書かれているのが目に入った。それは、イタコの口寄せが八月九日におこなわれたことの証左だろう。
  私の手術日が昭和五十九年八月九日。
  口寄せの始まったのが、その日の午後二時過ぎ。
  亡兄が大岩から救ってくれる幻覚は、午後一時に始まった手術中のことだった。
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2007年01月28日

 XIII

  朝。寝て起きたその部屋が大湊であることのわきまえが、私にはすぐにはつかなかった。
  それは、私の霊媒観では蛮族にしか神秘たりえないはずの非合理な口寄せの怪による前夜来の驚きで、たわいもなく肝を潰しかけたままでいる苛立ちに加え、そのことに纏わる家内との談義も夜更けてなお済まず、寝の足りぬまま朦朧と目覚めたせいだった。

  遅めの朝食のあと庭に出てみた。頭のなかには、やはり口寄せのことしかない。
  しかし、わずかに潮の香をはらんだ秋冷の大気につつまれていると、その脳裏から悍ましさや忌まわしさに近かった部分の影が薄れてゆくようでもあった。

  庭つづきに三棟ある蔵の、一棟目の角を曲がった奥で義弟が手伝いの男と樹の皮を剥いでいた。その樹は、地元でヒバと呼ばれている下北の名木檜の間伐材で、蔵の補修のための足場用に手を掛けているとのことだった。
  『こんなのは昼までには済みます。今日でも、あしたでも、兄さんお疲れが取れましたら、地蔵堂、お参りされてみませんですか。どうぞ、いつでもご一緒します』
  相変わらず優しい笑顔の義弟から恐山登拝の誘いだ。
  前夜の、私にとっての事件の端を発し、それ以降の時間を禍々しくさえ思わせてしまっている張本人だから、少なくも当事者として、私の様子から何かを感じそうなものだが、その表情からは何の屈託もうかがえない。
  そればかりか、蔵の補修などと日々の作業にも余念がないのだ。
  だが、正直言って義弟の私に与える心証は、祈願やそのための茶断ちからのそれとは、口寄せ以降大きく変わってきていた。
  祈願も茶断ちも、人智の範囲での心尽くしには、私は素直に感謝の涙が溢れたのだ。
  しかし、かりに人智のおよばぬ領域というものがあるとすれば、それはとりもなおさず非合理の領域なわけだから、祈願や茶断ちの効験がそこにまで達していたとなると、ことが穏やかではなくなる。
  非合理を認めざるを得ないとすれば、それも穏やかならざることだが、それよりも、人智のおよばぬ非合理の領域たるところに血の繋がりを持たぬ義弟が介入し得たことのほうに、むしろ釈然としないものを強く感じるのだ。
  なぜなら、無論、非合理も是とはしないが、しかし、父母や兄弟の霊によって救われるのなら、もともと肉親相互は不条理の関係だから、この不条理のゆえに、肉親間にのみ醸成される領域ならば非合理も受け入れ得ると思うのだ。
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2007年01月27日

 XIV

 手術直後、まだ灯ったままの無影灯のもと、死線を越えたという実感を私に生じさせたのは幻覚のなかで私を救った亡兄だ。私はこのことを、自分の心のなかに生きている生前の兄の情念が働いたものと解釈してきた。
 しかし、それがたとえ死後の世界にいる亡兄の霊魂の作用という非合理であっても、先に述べた理由から否定や拒絶におよぶことはないかも知れぬ。
 ところが、私が前夜来直面している事態は、その亡兄との非合理が、義弟の慮りから具現化した恐山に住むイタコの霊力と、紛う方なく同一であるという現実なのだ。
 先に、幻覚の中での私と亡兄とのことは義弟の知る由も無いこととしたが、私も義弟の願掛けやイタコの口寄せなど知るわけがなかった。
 こうなると、当惑を深めるより能の無い人智が不甲斐なく思われてくる。
 私は、前夜、義弟のノートに『8/9』を認めたとき、その場で「八月九日は手術の日でした」とだけは独り言のように言った。それに対し義弟も少しは驚いた風ではあったが、
「エッ、偶然ですなあ。…しかし、さすが東京の病院ですなあ、どんなことでも出来るんですなあ…」
と、話題は手術のことになっていったのだった。

 蔵から庭を戻りながら、義弟・恐山・イタコと手術そのものとは、とりあえず何の関連もないのかもしれないと、ふと思いはじめていた。
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2007年01月26日

 XV

 お昼を済ませてから義弟の運転で恐山に向かった。私は助手席を選んだ。

 地蔵尊が祀られている恐山は、慈覚大師円仁が唐の時代の中国で修行中のある夜、『京都の東方旅程三十日余の地にある霊山にて仏道を広めよ』との夢のお告げに接し、そのお告げにしたがって九世紀の中頃に開いたものだそうだ。
 義弟は、地蔵参りは子供の頃からとなると何度目か覚えていないほどだと言う。この菩薩が地元に深く根付いた崇敬の対象であろうことがうかがえる。

 田名部(地名)からの、昔は歩くしかなかったという登山道を車は快調に登ってゆき、みるみる陸奥湾と太平洋が一望のもとに見渡せる標高に達した。
 ドライブの快適さも手伝って気持が清々としてくる。
 すると、三日におよんで胸中にある口寄せと幻覚との符号の謎も、いっそ釈然とさせてく思いはじめてきたのだ。
 のんびりと安全運転そのものの義弟に、私は躊躇いを消した語調で思いのままを打ち明けてみた。
「兄さん、何かお考えのようでしたが、そういうことでしたか。
 そんなに不思議がられんでも、下北では、よくあることです。
 口寄せの中味を、全然別の場所で、知っていたって、別に…。
 それは霊のすることですからなあ。
 わたしは、イタコさんの口寄せを聴きながら、あのとき、シメタ、兄さんは助かった
 と、嬉しかったです」
 拍子抜けと言おうか、口寄せと幻覚との、しかも中味から日時までの符号に義弟はまったく驚かなかったのだ。
 ただ、話しながら鼻をつまらせたように感じられた。
 それは、イタコの口寄せを真剣に書きとめながら、遥かな東京で死の病と闘っている姉の亭主が、いま助かったと確信したときの、その時の感動がよみがえったからかも知れなかった。溢れそうになる涙をこらえていたのか。

 今回のことに、小説やテレビの世界の怪奇現象と同等の扱いで臨み、それを検証するかのような姿勢でしかなかったことを、助手席で身をこわばらせたまま、私は、ただ恥じ入るほかはなくなってきていた。
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